ホワイトブログ・ラングドシャ

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『8otto(オットー)』のこと

 昔、スイスとフランスの周辺で、金はおろか目的すら持ち合わせず、半ば自棄となって日々の生活をやりすごしていた時期があった。フランス語もてんで分からない身分でありながら、知り合いに頼み込んでなんとか日雇いの解体屋の職を得たものの、勤務態度はと言えばコンプライアンスなんぞどこ吹く風、解体中の家々から金目の物をこっそりくすねては(どうせ全て残さず処分してくれと仰せられているのではあるが)、町外れの骨董屋にせこせこと売りに行き、小銭を握ってはその夜の内にバーで酒に変えてしまう有様であった。

    当時の僕は「どうにでもなれ」と「どうしたらいいんだ」の狭間でへべれけになっていた。

 

 その日の仕事帰りもいつも通り、目ぼしい陶器やら彫像やらを抱えて店に行き、それらの品定めをする店主のオヤジを横目に、

「今日はバーで常連客達の悪ノリに参加して、正体を失くすまで飲もう。」

などとちゃちな計画をしていると突然、普段は寡言沈黙としてほとんど雑談もしようとしないオヤジが、珍しく自分から口を開いて何かを話し始めた。それが独り言の類ではないことはわざわざ英語を使っていることからも明らかであったし、そもそも金以外の全てを持て余す僕がそこに耳を傾けない理由はなかった。

 

「ものの良し悪しを見抜くのに、悪いものを知る必要はない。良いものだけをひたすらずっと見続けていればいい。自ずと悪いものも分かるようになる。」

 

 それだけ言うとオヤジはぱたりと口を閉ざし、無言のままはした金を差し出した。店を後にした僕は結局どこにも寄らず、真っ直ぐ帰途についた。何か重要な啓示を受けたと勝手に思い込んでしまったのだろう。家に着くなり冷蔵庫を開け、余らせていたビールを開けながら煙草をくゆらせた。

 

 

 さらに時は遡って十代も終わりに差し掛からんとするある日のこと、僕は〈8otto〉というバンドを知った。

 十代男子の唯一の責務である「意味もなく友人宅に集まって無為な時間を過ごす」という業務をソファでダラダラとこなしていると、不意に内一人の友人が、

「このバンド、かっこよくない?」

と、ライブ動画を見せてきたのである。

 不承不承耳を澄ましてみた率直な感想は、

(いつかどっかで聴いたことある感じがする。洋楽ナイズされてんなー)

という不遜極まりないものだった。当時の僕は〈4AD〉や〈SUB POP〉に傾倒していて、「日本製」というだけで眉をひそめるほど短絡的な思考で生きていた。救い難いほど「ナイズ」されているのはまさに自分の方だというのに、どうやら今以上に脳みそにディレイがかかっていたのだと思う。

 そんな背景もあって、僕はろくに動画も見ないままに、

「ふーん、いいやん」

とだけ生返事をして、再びソファに横になった。横目にちらりと見たPCの画面ではサングラスの人がベースを対戦車ライフルの様に振り回していた。

 この時の浅知恵の代償は数年後、きっちりと支払わされることになる。

 

 

 とある宴席で、「対戦車サングラスの人」トラさんとご一緒させてもらう機会があった。彼は行き届いた気配りと、人見知り特有の人懐こさを持ってして場を大いに盛り上げており、初対面の僕に対しても、お互いの家が近いと知るやすぐさまに、

「マグロの美味い店があるから今度一緒に行こう!」

と持ちかけて、あっさりと連絡先を交換してくれる始末であった。

 

 後日、早速トラさんから着信を受けた。

「先日はありがとうございました。マグロの件ですか?今晩は空いてますよ!」

と僕が嬉々として告げると、

「フレディマーキュリーとしてMVに出てくれ」

と、返ってきた。

 とてもシラフとは思えない提案であったが、先の席でトラさんの人柄にすっかり魅了されていた僕は、詳細など何も聞かないままに快諾する事にした。

 

 その日の夜に近所の焼き鳥屋で再会を果たし、MVの段取りをする中で、当該曲である〈SRKEEN〉と〈Another One Bites The Dust〉を聴かせてもらうことになった。初めて拝聴して以来数年ぶりに聴く〈8otto〉である。

 その時僕は、

「鳥はマグロではない」

と膨らしていた自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。

 そこには、尖り続けて一回転したからこそ得られるのであろう「高貴な大衆性」があり、前述のオヤジを借りると、それが「良いもの」であることは疑いようがなかった。僕は、音楽に対する昔の自分の浅学非才に恥じ入ると同時に、そこに携われる事を心から光栄に感じた。

 この一件を境に、〈8otto〉にはカメラマンとして関わらせてもらったり、トラさんとは公私を分かたぬ関係になるのであるが、論旨から外れてしまうのでそれについて書くのはまた別の機会に譲る事にする。

 

 

 文化とは家系図のようなもので、新しいものを残そうとするには、その血が正しく継承されている必要がある。それは、歴史的に見てもその時々の文化が全て、突然発生したものではなく、過去のそれの延長もしくは反逆として説明出来ることからも明らかである。「良いものを見続けること」は、脈々と受け継がれてきたその文化の嫡子となるに不可欠な手続きなのであって、それを踏襲してきた慧眼にはただ先達の血を「吸っているだけ」のものは「悪いもの」としか映らないのだろう。

 

 そんな文化の継承という観点に立った上で、多少の乱暴を承知で言えば、前述の骨董屋のオヤジの主張は、

「良いものを知らない人間が、良いものを作れるはずがない。伝統を知らない我流は、単なる無知でしかない」

とも言い換えられる。

 大っぴらに嘆くような身分ではないが、現代はそんな無知の輩が、アーティストという経済的に都合の良い冠を付けられてすっかり得意になって、大手を振って跋扈している。乗った神輿を担がれているに過ぎないのに、まるで自分が宙を舞う超人間であるかのような顔をしている輩も枚挙にいとまがない。

 しかし、そんな有象無象の中で〈8otto〉はまごう事なき「良いもの」として音楽文化の系譜にその名を既に刻んでいると感じられてならない。

 憂国の士、とまで言ってしまうと思想的になりすぎてしまうので控えるが、

いわゆる「アーティスト」という存在が経済原則によってすっかり去勢され、一般人ですらかつて「臆病」とされた態度が「堅実」として賞賛されるに至ってしまった今の日本から、彼らがいなくなるとこの国はどんなに寂しくなってしまうのだろうか。

 

 「良いもの」から次の「良いもの」へ。

音楽という文化を正しい形で次代へと継承させるという、強迫観念にも似た逃れがたい宿命は、観客席からの拍手喝采への癒しがたい渇望によって支えられている。彼らがこれからも舞台に立ち続けることを切に願う。

低俗と量産の時代に、あえて鳴り響かせる誇り高い音。

 それが、僕にとっての〈8otto〉である。

 

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 トラさん、そろそろマグロ食いに行きましょうよ。