【vol7.の道のり】
01/02 ルアンパバーン-バンビエン
【以下本文】
あまり宣伝のようなことはしたくないのですが、少しだけお付き合いください。
先日、念願と怠慢の息子のごとき心持ちで自分の店をオープンさせました。
店にはいつも自転車で向かうのですが、ある日の晴れた午後、うらぶれた工場地帯に差し掛かったあたりで、少し前を走る一台の自転車に目が止まりました。
姿を見ると、乗っているのは水で戻したばかりのかんぴょうのようなおじさん。着ている作業着らしき服は黒ずんだ油の染みだらけで、刑務所の床に吐き出されたチューインガムを思わせました。
歩く方が早いような速度で漂うそれを早々に追い越してしまおうと、ペダルに力を込めたそのとき、
「カーーーーッ!!」
というイキのいい出囃子がおじさんから鳴ったかと思うと、
「…ベッ!!」
濁った破裂音とともに黄味がかった粘り気のある体液が吐き出され、それはちょうど右側から抜き去ろうとした俺の左手の甲に、十点満点のフォームで着地しました。こんなに小規模の惑星直列が起きるなんて、NASA職員でも予測できたでしょうか。
ナメクジの死骸みたいなそれを眺めていると、おっさんと自分と太陽系の間に三人だけの秘密が出来てしまった気がして、視界がぐにゃりと歪みました。
このように、日食やら月食やらもあんまり大したもんじゃないなと思うわけですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか、ナガタです。店は地下鉄「蒲生四丁目駅」から徒歩3分!屋根等完備!雨でも濡れません!
本編を書きます。
ルアンパバーン最後の朝。起きると、友人はすでに荷物をまとめてシャワーを済ませていた。どうやら彼は周到にも昨晩の間にバンビエン行きのバスを予約しており、そのバスターミナルへと向かうトゥクトゥクは、すでにホテル入り口で待機しているから急いで準備しろという。憧れだったバンビエン。ここからバスで片道六時間ほどかかり、一日三便ほどしか出ない。なんでもっと早く起こしてくれなかったんだ。
昂ぶる俺に友人は、
「昨日言ったやん」
の一点張り。
ああそうだろうとも、お前は昔から折り目正しいところがあるし、こういう時に下手なウソはつかないタイプだ。確かに昨日俺はそれを聞いたんだろう。しかし聞いた本人に全く記憶がない場合、伝えたと頑なに主張することは、現在の危機的状況に対していかなる意味を持ち得るのか、そもそもこの場合の忠言というのは来るべき未来のある瞬間に対して不測の事態の起こる可能性をなるべく減少させようという双方の利を目的とした試みであるからして裏付けのない主張によって片方の責が担保されるということはそもそも命題に根本的な誤りを孕んでいると言わざるを…
水掛け論の代わりとばかりに寝癖のついた頭に水をぶっかけて、バタバタと乱暴に荷物をまとめる俺を見ながら友人は言う、
「ま、間に合わんかったらまた考えようや!」
右手に持ったコーヒーカップの上では、湯気がゆったりと揺れていた。
この日の朝、俺はルアンパバーンで一番ダサかった。
転げ落ちそうな駆け足で階段を降り、ホテルの玄関に出ると、トゥクトゥクに腰掛ける運転手の姿が見えた。
「遅くなってすみません…!」
「ハロー!なにも問題ないよ」
足元にそびえる吸い殻の山が、彼の優しい嘘を暴いている。
「お前ら、朝メシは済ましたのか?」
俺たちは、それが皮肉なのか善意なのか判断のつかぬまま、
「イェス、ノープロブレム」
と今にも鳴りそうな腹をさすりながら答え、埃っぽい車内に乗り込んだ。
「途中で何人か拾っていくからな」
乗客は俺たちが最初だった。
ルアンパバーンの街をチンタラと走り回る車内。吹き込む南国の風は、何度寝返りをしてもまとわりつく毛布のように鬱陶しく、自分が乗り物酔い体質であること、そしてそれがそれなりに重いことを、否が応でも思い出させてくれる。
途中、同乗してきた白人やアラブ人が、これから向かうバンビエンについて話に華を咲かせている。
「やあ!キミはどこから来たの?」
「…チャイナ」
胃腸の不快感が、俺にバレバレの嘘をつかせたのだと思う。
自分のいい加減さに少し嫌気がさしたが、言われた側はその比ではなかったらしい。以降全員が貝のように口を閉ざし、車内には自然と重苦しい雰囲気が流れた。
バックミラーの隣では、小さなネズミらしきヌイグルミが、車の振動に揺られていた。バスターミナルに着くまでのおよそ三十分間、俺たちを含む乗客の全員は、ボールチェーンに振り回される薄汚れたそれが、タイヤの吹き上げる砂埃で覆われてゆく様子をじっと見守って過ごした。
「バンじゃん」
バスターミナルに到着した俺の第一声がそれだった。
今からこれで六時間以上、先日原付で死にかけたあの悪路を、<地球のすっぴん>のようなあぜ道を行くのか。腹が減った。スナック菓子でも欲しい。気持ち悪くて口に運べなくてもいい。せめて車内で気を紛らわせてくれるような何かが欲しい。
運転手が言った。
「同乗の連中が遅れるらしいから、ここで待機だ」
すでに出発予定時間は大幅に過ぎている。彼は日陰の縁石に腰掛けて、二本目のタバコに火をつけ始めた。
俺の胃袋はもう寺子屋の雑巾ように絞り尽くされ何も吐き出せない始末。商店らしきものを求めて見渡してみれば、周囲はエルトポのような荒野。
俺たちはおとなしくその場に座り込み、遅刻してるヤツらを待つほかなかった。
ヤツらは、大量の食い物を持ってやって来た。
荒涼とした、地雷処理班の寝床のごときバスターミナルで、ひたすら待つこと一時間半、男女六人の白人グループが姿をあらわした。コカイングラム100円!今日まで!のような、まるで場違いなテンションだった。
酷暑と待ちぼうけのおかげで、溶けた地蔵のようになっている我々に向かって、先頭を歩く小太りの女が快活に言い放った。
「遅くなってごめんねーっ!!」
彼女の両手に握られた大きなビニール袋。年越しの買い出しとばかりに、カレーや揚げ物らしきものが所狭しと詰め込まれている。
そして、また別の女はまるで祝福の花束をもらったみたいに、ビール瓶を溢れんばかりに胸に抱えている。
遅刻は、いつだって犯す方が優位だ。それは、来るべき未来のある瞬間に対して不測の事態の起こる可能性をなるべく減少させようという双方の利を目的とした試みであるからして裏付けのない主張によって片方の責が担保されるということはそもそも命題に根本的な誤りを…
今朝、俺も寝坊をかました。
この世に因果の力があるとすれば、この不条理も俺が招いたといえなくもないんだろう。ただ一つ確実なのは、友人はまたしても因果のない応報を浴びたということだ。
抗議したい気持ちをそんな諦念で押し殺し、俺は無言のままバンに乗り込んだ。誰よりも早く窓際の席を確保する。汗ばんだ肌が塩化ビニールのシートに触れて、全身をラップに包まれて風呂に入れられているような不快感だった。
友人もさぞ不満げな表情をしてるだろうと前の席を覗き込むと、彼はすでにアイマスクにイヤフォンで完全武装を済ませ、うっすら寝息を立てている。
<旅慣れ>という言葉がある。
これはある種の先天的な能力で、戸籍や苗字と同じく、生まれながらにして決まっているものらしい。
こういう時、<旅慣れず>の宿命を持つ俺のような輩は、これから自分の身に巻き起こるであろう災厄についての、優れた予言者となってしまう。
よせばいいのに。同感だ。
今回の予言は次のような内容だった。
<バスは山道に分け入り、延々と曲がりくねった悪路は、ずっとコブシの演歌のように耐えがたい。いろは坂が、俺の三半規管を粉々に吹き飛ばす火薬だとしたら、カレーや揚げ物の匂いは、車内に充満したメタンガスといったところだ。あとはごく小さな火種さえあれば、ただちにコトは済む。
響き渡るアーパー白人男女の甲高い嬌声。わざわざ頭蓋を切り開くまでもなく、彼らの脳みそはベビーカステラそっくりだと断言できる。俺の血圧はどんどん低気圧になる。神が、瞳にとっての瞼を発明した時、なぜ耳と鼻にはそれを応用しなかったのだろうか。底意地の悪さか、怠慢か、あるいは二日酔いだったのか。いずれにせよ小一時間ほど問い詰めたい。おいちょっとそこに座れ。お前さあ、そもそも排泄後にいちいちお尻を拭かなきゃいけないこと然り云々…>
以上。
実際、これはほとんど的中してしまった。外れていたことといえば、俺の太ももを優しく撫でる手があったことくらいだ。隣はゲイ風味の中国産人間だった。
そっと中指を立てて事なきを得た。もう口を開く気力もなかった。
「バンじゃん」
これが俺の辞世の句になるのは目前だった。
そのとき、一筋の光明と思えるある感覚が脳裏をかすめた。
尿意が芽生え始めていた。
…そうだ。なぜもっと早く気がつかなかったのだろう。運転手含む乗客全員が六時間以上もおしっこを我慢できるわけがない。そう、どこかでトイレ休憩があるに違いないのだ。
しかし、肝心のその時がいつ訪れるかが分からない。もしも運転手に尋ねたとして、二時間後などという返事があったとしたら、その火種で俺の身体は木っ端微塵に吹き飛び、車内に爆散するかつて俺だった液体に、乗客たちは身をよじらせ金切り声をあげることになるだろう。
それは危険な賭けだった。だが、どのみち溺れるのなら、少なくとも岸には向かっていたと自覚して死んでいきたい。俺は意を決して声を絞り出し、尋ねた。
「あと15分くらいだ」
運転手は確かにそう言った。あと15分だけ生きてみようと思った。
山の中腹に位置する休憩所で、バスは停車した。重いドアを開けるとすぐに新鮮な空気と静寂とが、俺を歓迎してくれた。
思わず目を閉じて深呼吸をし、淀んだ体内を換気する。肉体のありとあらゆる部分が、今初めて外の世界に触れたようだった。
「おおっ、スゲー」
友人の感嘆の声が聞こえた。そこにはため息が漏れるほど豪華絢爛な光景が広がっていたのだ。
空と大地と植物のそれぞれが、大自然のおびただしい秘密を抱えながらも互いに結びつき、時には侵しあいながら、この一つの景色を形作っている。そして俺がこの先何年生きても、その秘密のたった一つも明らかになることはないのだと思うと、どうしようもなく恐ろしい気持ちになった。俺は畏敬に似た心持ちで、眠れる怪物のようなそれを起こさないよう、そっと眺めるしかなかった。
引き続き、怪物を起こさないようにそっと小便を済ました。途中景色に見とれていたために少しこぼしてしまった。
バスへと引き返していると、現地人と思しき一人の痩せこけたおっさんが、ゆらゆらとこちらに近づいてきた。彼は俺の前まで来ると、片方の手で股間を掻きむしりながら、もう片方の手を差し出した。
「五十円払え」
「え?なんで?」
「すごい良い景色だろ?金払え」
まさに完璧だと思った。そうだ、ただ素晴らしいだけの、完全無欠なものなんてこの世にあってはならないのだ。
アキレウスの腱、ジークフリートの背中、芳一にとっての耳のように、この絶景には乞食のおっさんが唯一の欠点であり、同時にその欠点のおかげで存在が許されている。このおっさんが加わることで、この大自然の絶景が完成していると思うと、胸が高鳴った。
ラオスの神は鼻毛が出ている、信用に足る人物だ。
今回の旅もいよいよ終わりに近づいている。その鼻毛に、俺はこの身を委ねるべきだろう。俺は再びバスに乗った。おっさんにはビタ一文払わなかった。
残りの行路はずいぶん楽だった。他の乗客たち全員が眠りにつき、車内は墓地のように静まり返っていた。長い山道を終えると、ちらほらと民家が見えてきた。とても雨風をしのげるとは思えないあばら家と、半裸で軒先に横たわる住民たちとを、夕映えが黄金に染めている。
それらに見とれているのも束の間、訪れた夕闇が、女が慌ててシーツを被るような手際で、その煌めく貧困と醜悪をサッと覆い隠し、もはや何も見えなくしてしまった。
視線の先が10mなのか1kmなのかも分からないほどの真っ暗闇の中で、ふと前方に小さな光が見えた。最初一つの塊のように見えたそれは次第に砕けてバラバラになった。破片は一つ一つ色を変えながら徐々に大きくなってくる。
原色だけで描かれた、けばけばしいネオンの灯。
俺たちは、やっとバンビエンに着いたのだ。
霧雨、ガソリン、焦げた肉の香り。すっかり嗅ぎ慣れた、熱帯特有の腐臭。
そのはずだが、この町にはどうにも、もう一つばかりのスパイスが混ざっている気がした。
大通りから外れた狭い路地に入ると、ぬかるんだ地面に足がずるっと滑った。暗闇に目が慣れると、正体不明の水たまりが、化膿した傷口のように広がっている。そのかたわらでは一人の男が、野垂れ死ぬ練習をしていた。
出発前、ある人がこんな風に言っていた。
「いやいや、それは古いイメージだよ。最近では全然そんなことはないよ」
しかし、長い年月をかけて浸透した泥水は、どうやらそう簡単には蒸発してくれないらしい。
<バックパッカー>という言葉にある、うらぶれた旅情の諸々が、地面の平らな部分全てをびっしりと覆っている。バンビエンはそんな町だった。
俺たちは、晩メシを食う店を探す道すがら、タバコの吸い殻を指先でピンと弾いて、水たまりに沈めた。あたかも、そうする方が正しいとばかりに。
店頭に置かれたメニューを手当たり次第に物色していると、従業員らしい少年が、かつてないほどのプレッシャーを与えてくる店があった。
無言で腕を組み、足を肩幅まで開き、眉間に縦じわを寄せて睨みつける、彼はホスピタリティ界の仁王像だった。
「入らば殺す」
そうはっきりと口に出される前に入店するしかない。
「二人で」
友人がそう告げると、彼はすぐさま踵を返して席に案内してくれたが、ベロがちぎれるほどの舌打ちをするのを忘れなかった。
「ようこそぉ!イラッシャイマセー!」
ウェイトレスの女性は、うってかわって明朗だった。ボーリング玉のような胸と尻を、ドンキの売れ残りのようなナース服が悲鳴を上げながら包んでいる。ショートカットの金髪は、安物のかつらのように一本の乱れもなかった。
彼女が、いわゆる<セクシー>であることは疑いようがない。だが、生活感というか、人間の手触りがなさすぎる。女性よりも家電に近い。ペッパー君の筆下ろしには適任かもしれないが、そんな未来は見たくない。
「こちらがメニューになりまァす」
雑にラミネートされた一枚の紙を手渡される。料理名は全て英語で書かれていて助かったが、一つだけ気になるところがあった。メニュー裏側を見ると、あちちこちに<HAPPY>という文字列が散らばっているのだ。HAPPYオムレツ、HAPPYピザ、HAPPYケーキにHAPPYティー、単なる飾りつけにしては念が入りすぎていた。
「このHAPPYメニューっていうのはどういう意味?」
返事をする代わりに彼女は微笑んだ。毛穴のない顔に引かれたルージュは、砂漠に落ちた赤い花びらのように、何か意味ありげだった。
しばらくして、彼女が料理を運んできた。
俺たちが頼んだのは、Lサイズのピザ、チキン&ポテトフライ。どこで食っても一定の味が保証された、旅行時の安心料理だ。
熱いピザを掴んで、滴るチーズを指で巻き取るようにすくって口に運ぶ。
…?
…美味い。いや、期待をしていなかったというのも確かにある。しかし、そのギャップを差し引いても、これまで食ったピザの中で掛け値無しに一番美味い。シェフの顔が見たい、できることならその爪の中に舌先を差し込んで舐めさせてもらいたい。
厨房を見やるつもりで店の奥に視線をやると、青紫のライトが漏れるビニールカーテンの中で、大量の植物が生い茂っている。首をかしげる俺の顔を、サイボーグの女が膝を曲げて覗き込む。
「HAPPY!」
彼女はその植物園を指差して言い放った。お前まだそこにいたのかよと思った。
店内はそれなりに混んでいたが驚くほど静かだった。男女のグループも談笑をしている様子はない。皆がそれぞれ、自我のB面に聴き入っている。声のない歌手が、店のどこかで歌っているみたいだった。
不意に肩を叩かれ振り向くと、背中合わせに座っていた女が俺を見ている。
「タバコを一本ちょうだい」
いいよ、と差し出すと彼女は、
「これ本当にタ、バ、コ、よね?」
「あなた嘘ついてるんじゃないわよね?」
と奇妙な勘ぐりをしてきた。
間違いなくタバコだよ、と言おうとしたが、俺を見つめる彼女の眼差しが、まるで俺の身体が透明であるかのように俺のずっと後ろを、店の壁も通り抜けたさらにもっと遠くを見つめているのに気づいて、話すのをやめた。
友人もさぞ不思議そうな表情をしてるだろうと前を向き直すと、 彼はちょうどBooking.comで今夜の宿の予約を済ませたところで、
「オッケ!出るか!」
と勢いよく腰を上げた。頼もしすぎる<旅慣れ>に少しの寂しさを覚えた。
店の外に出ると、入り口でさっきの仁王少年が、こと切れたピノキオのように地べたに座り込んでいる。ついに死んだのかなと思って眺めていると、突然こちらに手招きをしてきた。水中でしているようなゆったりとした動作だった。口元がうねうねと動いている。何か喋っているのだと気づくまで少し時間がかかった。
「目を閉じて、息を止めてみろ」
俺が言われた通りにすると、
「ほら、宇宙に着いたぞ」
と付け加え、ケラケラ笑った。
瞼を開けると夜空は青っぽい黒だった。
俺はいっぺんにこの町が好きになった。
「明日は別行動にしよう」
安宿の湿ったベッドに腰掛けながらそう提案し、この日は眠りについた。
一人きりで、あてもなく町をぶらつき歩きたい。こんな素朴な欲求が災いの元になるなんて、この時どうやって予測出来ただろうか。
<旅慣れず>
俺はまだ、自分の宿命を甘く見ていた。